上の文章は、小川幸司『世界史との対話(上)』の第8講「歴史のなかのイエスを探す」の一節だ。この講で小川さんは、荒井献さんの文献など、世界的な水準にある日本の「西洋古典学」の研究成果に学びながら、イエスに関する歴史的「事実」を明らかにし、論理的な「解釈」を展開している。その中からイエスの行動の本質にかかわる部分を紹介してみたい。
歴史的事実の出発点は、紀元30年頃、イエスが十字架処刑されたことだ。では、なぜ、イエスはこの刑に処せられたのか?この問に対して、「事実」に基づいて論理的に展開した小川さんの「解釈」は抽象的には次のようになるだろう。
イエスは、当時のパレスチナ社会のなかでもっとも差別されていた人のところへ赴き、彼らとかかわった。そして、世の中の最も”弱い存在”に、”いのちの尊厳”を見出し、”弱い存在”どうしは、お互いに支えあうことで未来への希望をもつ”強さ”をもつことができるということを行動で示した。権力を持った”強い者”が、実は強くはないという、それまでのギリシア・ローマ社会の価値観を根底から覆す行動をした。だから、処刑された。
このことを具体的に示す事実として紹介されているのが、「マルコの福音書」に書かれている次の文章だ。
*「マルコの福音書」は、新約聖書の中で最もイエスが生きていた時代に近い時期に編纂され(70年頃)、”生きていた”イエスの姿にスポットをあてており、歴史の中のイエスに迫る際の貴重な史料。
「事実」を反映した記述だと合理的に解釈した上の記述を小川さんはどのように「解釈」したのだろうか。
さて、どういうことなのだろうか。
イエスに触れることで、なぜ、彼女が治癒したのか?私にはその理由や治癒の過程を自分なりに合理的に推測することができる。しかし、できない人もいることだろう。そこで、生徒たちと世界史の授業をするなら、次のような問いを立てて、「歴史批評」を展開したいと思う。
問:イエスに触れて治癒したというのは本当だろうか。
本当だとしたら、なぜ、治癒したのだろうか。
さて、小川さんの「解釈」はまだ続く。彼女がイエスから治癒を得ただけでなく、イエスも彼女から得られたものがあるというのだ。
イエスが彼女に語りかけた言葉について、小川さんは次のように「解釈」している。
最も差別された人々のところで示したイエスの行動の本質についての「解釈」は次の通り。
イエスの生誕を祝う日のメッセージでした。
Mikado - Message De Noel
YESのjohn andersonが歌う - easier said than done
Composed by Vangelis.
Lyrics by Jon Anderson.