カシコレラ

高校教員を早期退職。「人生は実験だ」を合言葉に妻と信州に移住。 農・DIY・お金稼ぎの経験皆無の凡人が自給的暮らしを探求中。気ままにあれやこれや投稿。ひととひと、農と環境と教育をつなぐ「虹色ラボ」、真に持続可能な暮らしと生き方研究所「いっさ」主宰。

8月9日長崎への原爆投下 ~アメリカ軍はなぜ原爆を投下したのか?

 1945年8月9日11時2分、アメリカ軍は長崎に原子爆弾を投下した。8月6日8時15分の広島への投下に続き、2発目の原爆投下。

   *細かくみれば、1945年7月16日、アメリカ・ニューメキシコ州の砂漠の実験場「トリニティ・サイト」でプルトニウム爆弾の爆発実験(人類史上初の核爆発)を行っているので、3発めの原爆。核爆発による最初の犠牲は大地。

 日本でも、世界的にも、原爆投下というと広島の方が注目されることが多い。4~5年前、アーサー・ビナード編『知らなかった、ぼくらの戦争』という本を読んで、長崎への原爆投下にもっと目を向けた方がいいと思うようになった。2発目の原爆投下について詳細な事実を知ると、アメリカが原爆を投下した理由について深い理解が得られるからだ。


 アメリカ軍が日本に原爆を投下した理由については次のような考えがある。

  ア、戦争をこれ以上長引かせないため
  イ、戦後の国際社会で(特に社会主義国ソ連に対して)優位に立つための核兵器保有の実験のため
  ウ、ウランとプルトニウムという2つの異なる放射性物質の威力や影響を確かめるため(広島に投下された原爆はウラン爆弾、長崎に投下された原爆はプルトニウム爆弾)


 アメリカでは 原爆投下の理由として、アが広く語られているそうだが、長崎に投下されたプルトニウム型爆弾の投下実験用の模擬爆弾である「パンプキン爆弾」に関連する事実を知ると、アではなく、イ、ウ、つまり「核実験のため」というのが事実だろうと考えるようになる。

 戦争を長引かせないためだけならば2発目の原爆投下は不要だと考える人も多いだろう。原爆を使い果たした後の「パンプキン爆弾」投下は、プルトニウム爆弾投下実験、つまり核兵器の投下実験に他ならない。また、プルトニウム爆弾の方が威力があり、現在の核兵器の主流がプルトニウム型であることを考えると、プルトニウム爆弾を投下する「実験」(つまり2発目の原爆投下)はアメリカ軍にとって必須のことであったと考えるのが自然であろう。

 「パンプキン爆弾」は、1945年7月20日以降、プルトニウム爆弾の投下実験のため、極秘任務として、日本の30都市49発投下されたのだが、すでに原爆を使い果たした8月9日以降も「パンプキン爆弾」は投下されているのだ(最後の投下は8月14日)。

 原爆投下を正当化したい立場の人々は、長崎の原爆投下に注目して欲しくないだろう。

 尚、裏付けとなる文献調査を私自身は行っていないが、1993年、ネバダ核実験場を管轄している米国エネルギー省ネバダ事務所の刊行物において、広島、長崎への原爆投下が「核実験」として記載されていることが明らかになっているという。

 

(参考)関連年表

1945年7月までに、アメリカはウラン爆弾1個とプルトニウム爆弾2個を開発。
 *プルトニウム爆弾は構造が複雑なため丸々とした形状になり投下等の実験が必要だった。
 *ウラン爆弾は広島に、プルトニウム爆弾は砂漠の実験場と長崎に投下された。

1945.7.16. アメリカ・ニューメキシコ州の砂漠の実験場「トリニティ・サイト」でプルトニウム爆弾の爆発実験。
 *人類史上初の核爆発

1945.7.20. パンプキン爆弾(プルトニウム爆弾投下実験用の爆弾)投下開始
 *極秘任務として1945年8月14日まで30都市に49発投下された。

1945.7.26. ポツダム宣言

1945.8.6. 広島にウラン爆弾投下
 *35万人の広島市民のうち、約14万人が1945年12月までに死亡。爆発力1万6000トン。

1945.8.9.  長崎にプルトニウム爆弾投下
 *24万人の長崎市民のうち、約14万9000人が死亡。爆発力2万1000トン。

1945.8.14. 最後のパンプキン爆弾投下

 

【参考文献】
① 小川幸司「トリニティからチェルノブイリとフクシマへ」(『世界史との対話(下)』地歴社、2012)
② アーサー・ビナード編『知らなかった、ぼくらの戦争』小学館、2017