2017年のサティシュさんの講演で1つだけ気になったのは運動方針に関する次の箇所だ。辻信一さんの同時通訳を書き起こしてみた。
◆サティシュ・クマール「グローバルから、ローカルへ。豊かさから、幸せへ」(「しあわせの経済 世界フォーラム2017」)
講演動画(you tube 40分29秒)
https://www.youtube.com/watch?time_continue=280&v=c0ypKBR2HiI&feature=emb_logo
「グローバル経済の基礎は貪欲さと恐れ。ローカル経済の基礎は愛と共感です。私は、新しい運動をみなさんとともに始めたい。★→というのはですね、残念ながら、この世界をより良くしようとしている筈の運動家とか活動家の中にはですね、恐怖だとか不安に駆られて運動をやっている人が結構多いんですね。私は、その、環境運動であろうと、何であろうと、そういう恐怖に駆られた、恐怖にもとづくような運動のメンバーになりたくはありません。←★私のローカル運動、環境運動、そして社会をよくしようとする運動の原点は愛なんです。」
★→ ~ ←★の部分を読んで、グレタ・トゥーンベリや「未来のための金曜日」運動を私は連想した。その運動の根底には、未来への不安や恐れと適切な行動をとらない大人たちへの怒りがあるからだ。彼女らが行動をはじめたのは2018年のこと。この講演は2017年。サティシュさんがグレタさんらの運動を思い浮かべてこのようなことを述べているのではないことは明白だ。しかし、現時点で講演に接した人は、サティシュさんはグレタさんたちの運動を批判していると受け取ってしまうような気がしたのだ。
サティシュさんが、恐れにもとづくような運動には賛同せず、別の方法の運動の必要性を主張することは当然のことながら何の問題もない。しかし、グレタさんらの運動のような、大局的には同じ方向を目指す運動を批判していると受け止められることは、分断を生み、好ましくないと思う。分断されず、つながることを提唱していることとも矛盾する。
私は、グレタさんらの運動に積極的には関わっていない。むしろ、サティシュさんが提唱することを日々実践している。しかし、私たちが直面している問題を乗り越えて、未来を切り拓くためには、資本主義という経済システムの変革が必要であるとグレタさんらが表明している点に私は大いに注目している(2020年7月EUに提出した公開書簡参照)。サティシュさんも同様の考えを持っていると私は理解している(映画『サティシュの学校』(2018年製作)の中で「成長を追求し、グローバル化し、独占を目指すのは資本主義の本質です」述べている)。私の見解では、グレタさんらの運動も、サティシュさんの運動も、方法は異なるが、同じ方向をめざす運動なのだ。
◆2020年7月16日 グレタさんら4人の若者(未来のための金曜日)がEUに提出した公開書簡より
◆グレタさんと気候危機(気候変動、地球温暖化)https://kasikorera2017.hatenablog.com/entry/2021/01/06/194900
以上に関することがどうしても気になったので、サティシュさん自身がどのように表現しているのか、確認してみた。
“Global economy(聞き取れず)greedy and fear. Local economy (聞き取れず)love and compassion .I'm starting a new movement, a movement of love. ★→ Because, many of environmentalists, economists and activists are driven by fear. I'm not a member of such activism, I'm not a member of such environmentalism which are driven by fear. ←★ My activism, and my localism, and my environmentalism is driven by love.”
(グローバル経済の基盤は貪欲と恐れであり、ローカル経済の基盤は愛と共感である。私は新しい運動、愛の運動を始めている。★→ 環境保護論者、経済学者、活動家の多くは恐れにもとづいて行動しているからだ。私は恐れにもとづく活動のメンバーでも、恐れにもとづく環境保護活動のメンバーでもない。←★ 私の活動、地域主義、環境保護主義は愛にもとづくものである。)
サティシュさんは、恐れにもとづく運動とは異なる愛にもとづく運動を展開すると宣言しているだけで、恐れにもとづく運動をことさら非難しているわけではないのだろうと理解し直した。聴衆になるべく誤解を与えないようにわかりやすく伝えようと努めた辻さんの同時通訳が、却って恐れにもとづく運動を非難しているような印象を私に与えたように思う。翻訳(特に同時通訳)がいかに困難を伴うものかということを再認識した(イスラームでは、アラビア語で書かれた本来の『クルアーン(コーラン)』のみが聖書であり、他の言語に翻訳されたものは、あくまでも翻訳本に過ぎず、聖書とは見做されないというのも頷ける)。
一見些細なことをここまで深追いしたのは、「~をつくりだす」「愉しく~する」という行動には多くの関心が集まるが、「~に抗議する」「~に抵抗する」という行動にはあまり関心が集まらないという風潮が気になることが時々あるからだ。
ここまで書いて来て、二人の人物のことが思い浮かんだ。「あなたは抵抗よりも、音楽的な創造をもっとすべきです」という問いかけに、「創造し抵抗する。両方ではいけませんか。抵抗は時には最も難しく、最も必要とされる創造行為です」と答えた音楽家パブロ・カザルス、非暴力思想を形式的・表面的にのみとらえることに警鐘を鳴らし、「平和主義者のための暴力論」なるものを書いたマーク・ボイルの二人だ。